名古屋の芸事の中心地であった大須に生まれ、明笛の奏者でもあった森田吾郎は、当時ようやく充実し始めた学校での音楽教育に対し、家庭でもっと手軽に音楽に触れることができる大衆楽器の必要性を感じていました。そして、彼がヨーロッパで興業をした際にタイプライターを初めて見て、そのキーの構造を使えば誰でも演奏できる楽器ができると考え、江戸時代からあった二弦琴(八雲琴)の構造と掛け合わせて大正琴を発明し、大正元年9月9日(重陽の節句)に大正琴を発売しました。
大正琴の誕生
発明者の森田吾郎(本名川口仁三郎)自ら書いた初期の大正琴教本の序文。学校ではピアノやオルガンを使って音楽教育が進みはじめたものの、一般の家庭では手軽に音楽を楽しめる楽器がないことを憂い、もっと人々の身近に音楽をとの願いで大正琴を生み出したという彼の思いが伝わってきます。
当初大正琴は、「菊琴」、「大正二弦琴」などとも呼ばれていましたが、当時の大衆楽器といえばハーモニカや手風琴(アコーディオン)が主流で、大正琴はなかなか普及しませんでした。
第一次ブームの到来
ところが、大正3年に第一次世界大戦が始まると、ハーモニカや手風琴の輸入が止まり、これらの楽器の本格的な国産化が始まるまで、大衆楽器は品薄な状態が続きました。当時は大正琴発明者森田吾郎が考案した陽琴と呼ばれる比較的安価な国産楽器もありましたが、調弦や奏法が難しかったため普及しませんでした。
そんな中、老舗楽器店の「十字屋」が大正琴に注目して販売に乗り出すと、全国の楽器店も次々と追随し、瞬く間に第一次となるブームが訪れました。 第一次ブームは大正7~8年頃がピークで、女の子のいる家庭には必ずと言っていいほど大正琴があったと言われています。(「大正も遠く」大島政男著より)
海を渡った大正琴
第一次ブームに陰りが見え始めると、大正の終わり頃から大正琴のメーカーは販路を求めて東南アジアに輸出を始めます。昭和10年前後にかけて、多くの大正琴が中国、東南アジア、インドに渡りましたが、戦争により輸出が滞ると現地での製作が始まり、特にインドでは様々な大正琴派生楽器が生まれました。
大正琴から派生したと思われる民族楽器
戦争が落とした影
戦前、国内の愛好者が激減していた大正琴ですが、メーカーにとって頼みの綱であった輸出も戦争の影響で止まり、更には製造拠点であった名古屋が空襲により大打撃を受けたことで、大正琴は最大の危機を迎えます。 昭和20年代半ばには一部で製造が再開されたものの、愛好者の数は限られており、大正時代の大流行の面影は全く感じられない冬の時代が暫く続きました。
昭和40年頃まで製造された松に富士が描かれた「黒四」「黒五」と呼ばれる大正琴。
大正琴よ再び…第二次ブーム
そんな大正琴に再び光を当てたのが古賀政男でした。 明治大学マンドリン倶楽部を創設した彼は、どこかマンドリンにも似た哀愁ある大正琴の音色に惚れ込み、自らもプレーヤーとして昭和34年には村田英雄が歌った「人生劇場」に大正琴で参加したほか、「KOGA-TONE」ブランドの大正琴の製造を手掛け、糸巻きの改良や内蔵マイクの開発など、楽器としての大正琴の完成度を高めました。
古賀政男の情熱が実を結び、大正琴を習う人も増え始め、各地で教室も開かれるようになりました。こうして静かな第二次ブームが到来しましたが、大正琴はまだまだひとりで楽しむ楽器という色合いが強く、今日の演奏スタイルとは全く異なっていました。
大正琴アンサンブルの登場…第三次ブーム
そんな大正琴の世界に革新を起したのが琴伝流です。
琴伝流は昭和49年に大正琴購入者へのサービスとして演奏指導を始め、大正琴でもっと豊かな音楽表現をしたいと、弦や大きさを変えるなど自由な発想で楽器の改良を始めました。こうして昭和50年代半ばまでに琴伝流が大正琴史上初となる「アルト大正琴」、「テナー大正琴」、「ベース大正琴」を開発し、大正琴アンサンブルが誕生しました。
これにより大正琴がひとりで楽しむ楽器から大勢で楽しむ楽器となり、当時の農協婦人部などの協力もあり琴伝流の大正琴アンサンブルが全国に広がりました。これを見てほかの団体もこぞって大正琴アンサンブルを取り入れ仲間を増やし、大正琴アンサンブルは演奏スタイルのスタンダードとなりました。これが第三次ブームです。
以降、新しく興った流派はもちろん、数団体あった既存の流派にも琴伝流の演奏スタイルが影響を及ぼし、大正琴アンサンブルは最もポピュラーな演奏スタイルとなりました。
平成に入ると音楽表現や理念の違いから、各地で流派を名乗る100以上の団体が誕生しました。琴伝流のような全国組織から、数十名程度の小さなサークルまで様々な団体が乱立したことを受け、流派の垣根を越えて大正琴の普及に取り組もうと、平成5年には琴伝流、琴城流、琴生流、琴修会、琴心流の5流派により、文部省(現文部科学省)の認可の下、社団法人大正琴協会が設立され、平成25年には内閣府の認可により公益社団法人に移行しました。
ブームから文化へ
第三次ブームは、昭和50年代から平成10年頃まで約20年間の長きに亘って続き、この間に大正琴は「流行」から「文化」へと足場を固めることができました。 現在は大衆楽器の特性を活かし、年配の方がボケ防止にと始める一方で、若い方が大正琴音楽文化を究めようと次々と新しい挑戦をしたりと、生涯学習の名に相応しい楽器としてその可能性を広げています。
スペイン風邪・新型コロナと大正琴
大正琴ブームのピークと言われる大正7~8 年は、世界的で猛威を振るったスペイン風邪が日本で流行した時期と重なります。
当時は唱歌や流行歌が次々に生まれて音楽が身近になり始めたものの蓄音機やラジオが普及しておらず、手軽に一人で音楽を楽しめる大正琴が「巣ごもりの友」として一気に広がったと考えられます。
100年前はスペイン風邪の流行が大正琴に追い風となりましたが、大正琴が合奏楽器に進化した今は、新型コロナウイルスの流行が強い逆風となりました。この疫病の流行と大正琴の琴伝流の考察は、令和3年には中日新聞(長野県版)、令和4年には朝日新聞(東海版)、中日新聞でも大きく紹介され大正琴の歴史研究にも貢献しました。
9月9日『大正琴の日』
大正琴が大正元年(1912年)に誕生し、100周年を迎えた平成23年(2011年)12月の社団法人大正琴協会第38回通常総会で、大正琴が発売となった9月9日を「大正琴の日」と定める議案が可決されました。そして、大正琴満100歳となる平成24年には、「大正琴の日」のロゴマークも公募により決定されました。
大正琴誕生百年記念碑
大正琴誕生100周年記念事業の一環として、平成21年に岐阜県恵那市にある「日本大正村」の大正ロマン館敷地に日本大正村村長(当時)の司葉子さん揮毫による「大正琴誕生百年記念碑」を建立しました。
除幕式は司村長始め恵那市長らも列席して賑やかに行われ、大正時代ゆかりの地にまた一つ時代を象徴するモニュメントが増えました。
「日本大正村」とのご縁も琴伝流の大切な財産です。
大正琴誕生110周年
大正琴誕生110周年の令和4年に、元名古屋芸術大学教授の金子敦子先生と共に朝日新聞社と中日新聞社の取材を受けたほか、令和5年3月から公開された金子先生製作の「大正琴110年の歩み」に大正琴協会加盟流派として協力し、撮影の一部を琴伝流本社内の展示室「大正100年館」でも行いました。